学校のうつりかわり
(1)光洋小学校の誕生
今から30年と少し前の1969年から、鴨居白潟海岸の埋め立て地に「かもめ団地」の建設が始まりました。そのころのかもめ団地の子どもたちは、鴨居小学校へ通うことになっていました。ところが1970年の第一回目の入居では202名、さらに団地の建設が進み第3回目の入居までに、700名近くの子どもが鴨居小に通うことになってしまいました。鴨居小学校では、転入生が増えすぎてたいへんに困りました。そこで、先生方やPTAの代表の方々が集まってかもめ団地の近くに新しい学校を建設することを相談し、横須賀市に働きかけました。

校舎建設の様子

 その結果、みんなの願いがかない、かもめ団地の南西の方の海を埋め立てて、鴨居第二小学校 (後の光洋小学校)を開校することが決まったのです。団地の入居が始まってから3年後の1973年に、ついに新しい小学校、わたしたちの光洋小学校が誕生したのです。

開校式

(2)開校当時の学校

  1973年3月。新しい学校の開校準備が始まり、春休みに入って先生方や5・6年生が中心となって、鴨居小学校から机やいすを移動しました。みんな新しい学校への期待を胸に一生懸命にがんばりました。
 草木一本生えていない校庭の整備は、まず植樹をすることから始まりました。鴨居小学校からいただいた記念の桜、開校記念の松、伊豆下田から運んだつつじをはじめとして、その数は総計700本あまりにもおよびました。
そして1973年4月5日、第一回目の始業式と入学式が行われました。新しい小学校の空と海はどこまでも青く、できたばかりの白い校舎と745人の子どもたちの笑顔をいっそう浮き立たせていました。入学式は、体育館がまだ無かったために、一番広い部屋であった職員室で行われました。

第1回入学式

 このころは、校舎も現在の北校舎ひとつで、体育館もプールもありませんでした。最初の卒業式は、プレハブ校舎で行われました。でも、そのスローガン「未来の夢を大きく、明日に向かってはばたこう」の通りにあふれる活力が感じられました。また、この年、21世紀に向けてのタイムカプセルが希望の丘に埋められました。
このタイムカプセルは、21世紀になった2000年10月に、第一期卒業生と先生方が希望の丘に集合し、在校生が見守る中、開封されました。当時の小学生もみな働き盛りの年になり、なつかしい友だちや先生方と感動のひとときを過ごしました。
タイムカプセル開封式

第1回卒業式


(3)校名・校章そして校歌の誕生
@校名
 新しくできた小学校の名前は、横須賀市で募集して決められることになり、多くの方々から応募がありました。その中から広川千鶴さんの「光洋小学校」という校名が採用されました。広川さんによると「はるばる広がる太平洋に続く海、光り輝く海原が窓から見える学校で、明るい心と大きな希望を持ってたくましく育ち、生きるように」と願いを込めて、「光洋」という名前をつけられたそうです。

A校章

 三羽のかもめが光洋の文字を囲むデザインの校章は、1975年3月に決まりました。三羽のかもめは、それぞれが、児童・先生・父母が手をつないでいることを表しています。また、青地は限りなく広がる海と空の青を表しています。この校章には光洋小学校の児童が、大洋と大空に向かって、どこまでもはばたく、おおらかな人間になってほしいという願いがこめられています。
B校歌
 私たちが歌っている校歌「光洋小子どもの歌」は、1973年6月19日の開校式(現在の創立記念日)に生まれました。この歌は、子どもが自分たちのために大きな声で歌える歌として、児童や先生方から持ち寄った作品で詩をつづり、その詩に当時の5年1組の先生と児童たちによって曲がつけられていきました。そして、当時の教育委員会の指導主事の先生により補曲され完成しました。その後、1993年の創立10周年にあたり光洋小学校の校歌となりました。子どもたちの手で作られた自分たちの校歌「光洋小子どもの歌」は、その後もずっと歌いつがれていくことになりました。

(4)校舎と児童数のうつりかわり
 光洋小学校が、開校した当初から大きな問題が起きていました。それは、校庭の砂ぼこりです。校庭の整備がきちんと行われていなかったため、少しでも風が吹くと校庭の土が砂ぼこりとなって、団地に流れ込んだのです。ひどいときには、目を開けて歩くことさえできないような状態で、洗濯物も干すことができません。団地では自治会を中心に「砂ぼこり対策委員会」を作り、横須賀市に掛け合いました。その結果、ようやく1980年にスプリンクラーの設置など校庭の整備ができあがり、団地でも安心して洗濯物が干せるようになりました。
 開校当時745人の子どもたちは、現在の北校舎で学びました。新しい三階建ての校舎はピカピカで立派でしたが、中はまだ貧弱でした。次々と団地に入居してくる子どもたちは増える一方で、机やいすが足りなくなりました。不足分は市役所や近くの学校であまったり古くなったりしたものを、先生方がトラックを借りて授業後毎週のようにいただきに行きました。1975年には子どもの数が1000人をこえ、ついに教室も足りなくなってきました。そのため、校舎を増やす工事がこの年に始まりました。現在の南校舎です。翌年2月9日に新校舎は完成しました。また、この年1976年12月には待望の体育館もできました。
開校当時の校舎の様子
その後、子どもの数は1979年の1352人をピークに少しずつ減り始めました。特に80年代に入ってからは、毎年のように学級数が減り、空き教室も増える一方になりました。空き教室は低学年図書室・中学年図書室等様々な形で活用されるようになり、また、1992年には待ちに待ったプールが完成し、子どもたちは大喜びで水しぶきをあげました。
プールでの水泳授業
子どもの数はその後も減り続け、2000年にはついに全学年1クラス、全校で168人という小規模校になってしまいました。空き教室もますます増え、広い校庭で遊ぶ子どもたちの数もまばらになってしまいました。しかし、空き教室は、ランチルーム・相談室・コンピュータ室等になり、新しい時代に向けた設備が充実してきました。また、2001年1月には、南校舎のトイレが全面的に改修され、きれいで明るい夢のようなトイレが完成しました。同じ年の11月にはコンピュータ室に20台のパソコンが設置され、インターネットを利用した授業もできるようになりました。 また、2001年9月11日。台風15号が関東地方を直撃し大きな被害をもたらしました。かもめ団地の防波堤には、朝から強い波が押し寄せ学校は臨時休校になりました。風雨が激しくなるにつれて、ついに防波堤が決壊し、海の水がどんどん学校に流れ込んできました。幸い、校舎の中には浸水しなかったので、大きな被害はまぬがれましたが、校庭は海のようになり、翌日はみんなで後かたづけをしました。
さて、これからの光洋小学校はどんな学校になっていくのでしょうか。これから先も、子どもたちの数が、急に増えることはないでしょう。こぢんまりとした小さな学校として残っていくことでしょう。でも、人数は少なくても、青い空と大きな海とに囲まれた私たちの学校は、子どもたちの元気で明るい声がひびきわたる、すばらしい小学校として進んでいきたいと思います。