カモメ
 
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大矢部小学校
満昌寺
 1194年、三浦大介義明の忠死をとむらって、源頼朝によって建てられました。頼朝は義明の17回忌にこの寺に参り、「今日まで義明は生きていたと思う。」と義明になさけをかけたと伝えられ、「三浦大介百六ツ」(89才で死んだ義明に17の生命を加えた)は、この伝えから生まれたのでしょう。  
満昌寺、頼朝お手植えのつつじ
 本堂の前には頼朝のお手植えと伝えられる大きなつつじがあります。このつつじの大きく張った枝の下をくぐると頭痛がなおるといわれています。  
満昌寺、三浦大介義明(第四代目)座像
 三浦氏は1180年、源頼朝の挙兵におうじて石橋山の合戦にかけつけましたが、その前に頼朝は平氏の軍と戦ってやぶれ、落ち延びました。平氏、畠山重忠らに衣笠城を攻められ、義明はひとり城にとどまり、89才で悲壮な最期をとげました。  
満願寺
 佐原義連(義明の子)によって建てられ、義連の墓と呼ばれる五輪塔があります。義連は19才で源平の戦いに参加、一ノ谷のひよどり越えで絶壁をまっ先に馬でかけおり手柄を立てた弓の名手でした。  
近殿(ちかた)神社
 大矢部の鎮守となっていて、祭神は三浦義村(義明の孫)であると言われている。御神体は義村の座像(江戸時代作とみられる)です。
薬王寺跡、三浦義澄の墓
 鎌倉幕府の侍所の別当、和田義盛が父義宗(義明の子)、叔父義澄(義明の子)の菩提をとむらうために建てたと伝えられています。義澄は矢部の二郎と呼ばれ、この辺りに館をかまえていたとみられます。  
清雲寺
 三浦氏の二代目、為継が開いた寺と言われ、「三浦三代の墓」があります。中央の五輪塔が二代目為継、左右が円通寺から移された、初代為通、三代目義継と伝えられています。  
腹切松
 衣笠合戦の時ただ一人残った義明は、衣笠城から馬に乗って逃れ、曾祖父の為通、父の義継の墓所のある円通寺が見える所の、松の根に腰をすえ、腹を切ったと伝えられています。 そのことから、この松を腹切松と呼ぶようになりました。  
佐原城址
 佐原義連(義明の子)が、佐原にある台地に城を築いた所と言われています。自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時のようすをしのばせてくれます。  

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